Kowa 興和株式会社

歴史History

明治創業から昭和明治創業から昭和

1894~1945

1894年明治27年

綿布問屋「服部兼三郎商店」(名古屋市八百屋町)創業

興和グループの社歴は、明治27年、服部兼三郎が自らの名を冠して興した個人商店「服部兼三郎商店」にまでさかのぼる。当初手がけたのは鳴海、有松あたりでできる絞や知多木綿の集荷であった。

1912年大正元年

株式会社服部商店の創立総会を開催し、本店を名古屋市東区宮町、大阪支店を大阪市東区南久宝寺町に設置

株式会社への移行により社内体制の明確化が求められた。経営の近代化である。株式会社服部商店が綿布問屋から脱皮し、繊維商社としての次の飛躍を果たす上で、不可欠なステップであった。

服部サイジング工場(名古屋市中区葛町)を新設 【初の生産工場】

株式会社服部商店初の生産工場は、大正元年、名古屋市中区葛町(現、中区松原2丁目)で操業を開始した「服部サイジング工場」である。従業員約50名、糊付機3台とその付帯設備をもち、糸の糊付を行なった。

1913年大正2年

大阪支店を大阪市東区伏見町に移転

大阪地区の泉州(堺・岸和田近辺)が綿布の一大産地であり、この頃日本の綿製品の輸出基地であった大阪での業務を拡大。

1914年大正3年

桜田工場(名古屋市南区熱田東町)を新設 【織布業の開始】

桜田工場は服部サイジング工場の糊付機を移設すると共に、新たに織機を導入し、株式会社服部商店初の織布工場となった。当初の設備は糊付機4台、織機308台であった。

1916年大正5年

小牧工場(愛知県東春日井郡小牧町)を新設

第一次世界大戦の大戦景気が到来し、国内経済は活気を帯びてきた。特に綿業の活況は著しく輸出綿布を中心に生産量も飛躍的な伸びを示した。そのような状況下、株式会社服部商店は織布専門の小牧工場を設けた。設立当時の設備は、広幅織機112台、小幅織機68台であった。

和歌山出張所を新設

自社での綿ネルの製造販売を計画し、和歌山市小野町に店舗(和歌山出張所のはじまり)を構えた。

1917年大正6年

熱田工場(名古屋市南区熱田東町東起)を新設

熱田工場は株式会社服部商店初の紡績工場として計画され、名古屋市南区熱田東町東起に設置。
当初は織機72台での操業開始となった。

大阪支店を大阪市東区淡路町に移転

1918年大正7年

古知野工場(愛知県丹羽郡古知野町北野)を新設

古知野工場の当初の設備は織機200台程度で、織布専門工場であった。

1919年大正8年

横浜工場(横浜市南太田町)を新設

横浜市南太田町に横浜工場を開設した。紡機3,200錘で操業開始。

浜松出張所(浜松市田町)を新設

古くから織布業の盛んな遠州に生地綿布・糸染の綿布取扱い拠点として、浜松出張所を新設。

熱田工場において紡績工場操業開始 【紡績業の開始】

熱田工場に紡機4,000錘を購入して紡績業を開始し、その後の織布・紡績工場の主力工場となった。

1920年大正9年

福井工場(福井市立矢口)を新設

福井工場の当初の設備は紡機7,600錘、織機256台で始まった。

1921年大正10年

南海染工株式会社(和歌山市手平)を設立 【染色業の開始】

第一次世界大戦は、わが国の染色加工業に飛躍的近代化をもたらした。
当時、別会社として「南海染工株式会社」を設立。これにより染色業に進出した。

1923年大正12年

関東大震災により、東京出張所全焼。横浜工場全壊

1919年の好況時、首都圏進出の足がかりとして、東京出張所と横浜工場を設けたばかりであったが、この天災はこれら二つの拠点を瞬時に破壊してしまった。

1929年昭和4年

三輪常次郎、社長兼専務取締役に就任

1932年昭和7年

蒲郡出張所(愛知県宝飯郡蒲郡町)を新設

古くからの機業地、蒲郡に太番手糸を使った厚手の綿製品を扱う蒲郡出張所を開設

1935年昭和10年

ボンベイ駐在員事務所(現在のインド:ムンバイ)を新設 【海外初の駐在員事務所】

大正時代から社員を海外に派遣してきたが、輸出増大に伴い、1935年を過ぎる頃から海外各地に出張所・駐在員事務所を設置し、駐在員を常駐させる形態に切り替えていった。1931年以降、インドは中国を抜いて日本の最大の輸出相手国となっていた。そうした重要性からボンベイに海外初の駐在員事務所が設けられた。

1937年昭和12年

名古屋汎太平洋平和博覧会にて、出品した「双童細綾」が、名誉賞牌ならびに優良国産大賞牌を受章

名古屋市南部の臨港地帯で「名古屋汎太平洋平和博覧会」開催(参加国:29カ国、総入場者450万人)

奉天出張所、上海出張所を新設し、海外進出を加速

1932年の満州建国後は、日本からも出張員がたびたび出かけ取引も増大したことから、奉天出張所を開設した。日本からポプリン、サラサなどを仕入れ現地で販売した。また上海出張所は上海市内の愛知県貿易館の一室に開設した。

1938年昭和13年

和歌山工場(和歌山市十二番町)を新設 【縫製業の開始】

和歌山出張所の一角に本縫ミシン30台を設置し、縫製業を開始した。当社初の縫製工場である。これにより紡績、織布から染色、縫製に至る一貫生産体制が完成した。

1939年昭和14年

株式会社服部商店は、株式会社カネカ服部商店を設立し、商事部門(現 興和株式会社)と紡績部門(現 興和紡株式会社)を分離

統制経済政策推進中の商工省からの会社分割の指導に基づき、「商・工分離」の組織変更実施。

1940年昭和15年

株式会社服部商店(現 興和紡株式会社)は、松阪木綿株式会社・南海染工株式会社・株式会社矢田川染工の三社を吸収合併

株式会社服部商店は1939年12月2日に臨時株主総会を開催し、かねてより経営下にあった3社を吸収合併を決議した。紡績・織布から染色・縫製に至る一貫した製造・加工体制の構築の一環で、一層の事業効率化を図り、生産実績を大きくして、今後の原料・資材の割当確保を意図。

株式会社服部商店を興亜紡績株式会社に、
株式会社カネカ服部商店を株式会社服部商店に商号変更

商号変更は商事部門の「株式会社カネカ服部商店」を「株式会社服部商店」に、メーカー部門を継続した「株式会社服部商店」を「興亜紡績株式会社」に、それぞれの業態にふさわしい社名とした。これによって名実共に商工の二社体制となった。

株式会社服部商店はチリ駐在員事務所を新設

チリでは日本から入れた「オスナブルゴ」(大番手糸で織った小麦粉袋用綿布)、晒綿布、先染綿糸の需要が増加。1941年には戦略物資としてコバルト鉱石をチリから日本に積み出したこともあった。

1941年昭和16年

株式会社服部商店は西貢(サイゴン)駐在員事務所(現在のベトナム:ホーチミン)を新設

サイゴンでは、生地綿布、晒、プリントなど繊維の取扱いが主だったが、のちにアンペラ、野菜などの集荷業務を行った。

第二次世界大戦の影響によりボンベイ駐在員事務所を閉鎖

ボンベイ事務所は1939年なかばまでは商売も順調に推移したが、第二次世界大戦勃発とともに営業活動は難しくなった。現地総領事館からの帰国勧告により日本に引き揚げた。

1942年昭和17年

太平洋戦争の影響によりチリ駐在員事務所を閉鎖

当時のサンチャゴの駐在員はウルグアイのモンテビデオから上船し、アフリカ回りで帰国した。

1943年昭和18年

株式会社服部商店を興服産業株式会社に商号変更

興亜紡績株式会社から「興」を、服部商店から「服」をとって「興服産業株式会社」としたものと思われる。「興」を冠することで興亜紡績株式会社との一体感を強めた。

1945年昭和20年

興亜紡績株式会社を興和紡績株式会社に商号変更

商号変更は日本の平和と社業繁栄を「平和を興す」という「興和」の名に託した真摯な期待と決意をこめたものであった。

敗戦により、興服産業株式会社の海外支店・出張所はすべて閉鎖

敗戦により海外の支店・出張所網を一挙に失い、残された事業は国内の配給代行、非統制の雑貨取扱いばかりとなった。

事業の多角化事業の多角化

1946~1969

1946年昭和21年

興服産業株式会社の新事業部門「興和光器製作所」(愛知県宝飯郡蒲郡町)を新設

わが国の光学機器産業は、太平洋戦争中はすべて光学兵器生産にあたっていた。終戦後、GHQに民需転換の許可を求めた光学機器産業各社に対するGHQの対応は速やかで、1945年10月から翌年初めにかけて大半の会社に許可がおりた。当社が光学業界に参入したのはこうした時期であった。

1947年昭和22年

興服産業株式会社の新事業部門「興和化学」を新設 【医薬品の生産を開始】

戦争により綿紡績が全設備の80%以上を失ったのに比べ、医薬品産業の生産設備の被害率は20%以下であった。終戦により既存製薬メーカーは手持ちの原材料や限られた入手可能原材料で生産を再開したが、当社が薬業界に進出を試みたのはこうした時代であった。戦後の平和産業として、人々の健康を守る産業への新規参入には良い機会であったとも考えられる。興和紡績株式会社矢田川工場内に「興和化学名古屋工場」を、東京支店ビル2Fの一室に「興和化学東京研究所」を開設した。

1949年昭和24年

興服産業株式会社の興和化学東京研究所、上野の東京薬学専門学校女子部内の一室に移転

東京研究所は東京支店ビルが繊維部門の事業拡大で手狭になり、1949年から53年までの約4年間は上野の東京薬業専門学校女子部の一室での研究活動となった。

興服産業株式会社は7月より社員の海外派遣を再開

1947年に制限つきながら民間貿易が再開され、興服産業株式会社は本店に輸出部を設置。本店では海外からの注文を受け、大阪支店では注文に基づいた輸出綿布の仕入れ、集荷、船積みを担当した。1949年海外渡航が許可されたことを機に、興服産業株式会社も海外派遣を再開した。

1950年昭和25年

興和紡績株式会社の株式を名古屋証券取引所に上場

昭和20年代を通じて多様な領域で復興や増設そして新規参入が進められたが、そのための資金の調達が必要であった。各企業は株式上場や、社債発行等により資本の充実を図った。

1951年昭和26年

興服産業株式会社の興和化学名古屋工場の新工場が名古屋市北区金田町に完成

1948年に発売したわが国初の抗ヒスタミン剤「レスタミンコーワ注」、1949年発売の「コルゲンコーワ」は風邪薬に日本ではじめて抗ヒスタミン剤を配合した医薬品。両製品の広告・宣伝戦略も功を奏し、一躍当社の代表製品の座を占めた。医薬品売上の順調な伸びに対応して工場や研究所の移築・増強が図られた。

1952年昭和27年

興服産業株式会社は日本ではじめてスポッティングスコープを発売

スポッティングスコープを日本ではじめて製品化した。元来射撃競技の標的を観察する目的で開発されたものだが、工学的性能のよさと堅牢な造りで、次第に海外市場を席巻した。後年、東京オリンピック射撃競技では当社製品が採用され活躍した。また近年ではバードウオッチングのアイテムとしても人気を博している。

1953年昭和28年

興服産業株式会社の興和化学東京研究所の新施設が東京都杉並区下高井戸に完成し、上野の東京薬学専門学校女子部内より移転

自前の研究所を持つべく杉並区下高井戸に土地を購入。3,400坪の敷地に鉄筋コンクリート造り三階建て、延べ580坪の研究棟を建設した。

1954年昭和29年

興和紡績株式会社新本社ビル(名古屋市中区朝日町)が完成

1901年以来、長らく名古屋市中区宮町に本拠を置き活動を続けてきたが、事業拡大に伴い事務スペースが手狭となったため、戦後まもなく中区朝日町および木挽町に分室を設けた。その後、時代の落ち着きとともに興和グループの中核にふさわしい社屋を建設することになった。竣工はテレビ時代の幕開けを象徴する名古屋テレビ塔とほぼ同時期となった。

興和新薬株式会社の創立総会開催

興服産業株式会社の医薬品は、スメニンの発売以来すべて既存の薬品問屋を通じて販売されてきた。薬品問屋の経営不振を契機に、その後の販売ルートは自前の販売組織をつくることとし、興和新薬株式会社を設立するに至った。

1955年昭和30年

興服産業株式会社は光学製品の米国販売拠点として、米国現地法人「コーワ・オプチカル・コーポレーション (Kowa Optical Corporation) 」を設立

光学製品の米国販売拠点として「コーワ・オプチカル (Kowa Optical Corporation) 」を設立した。当初、光学製品に限らず繊維その他を広く扱うこととし、社名も「コーワ・アメリカン (Kowa American Corporation) 」とする予定であったが、当時のわが国の外貨事情から企業の海外進出は厳しく制限されていたため、業務も社名も光学に限ったままスタートした。

1956年昭和31年

興服産業株式会社と西独(現在のドイツ)ヘキスト社との合弁会社「日本ヘキスト株式会社」を設立

医薬品部門の創成期を終え、そろそろ新たな発展を目指そうとしていた時代であり、その施策の一環として海外企業との提携により新薬の品揃えの強化を図ろうとした。当時日本市場への進出を検討していた「ドイツ・ヘキスト染料薬品株式会社」の方針が一致し、合弁会社「日本ヘキスト株式会社」を設立した。
わが国の資本自由化は1967年のことであり、外国との合弁会社はまだ珍しい時代であった。

1957年昭和32年

興和紡績株式会社古知野工場に長繊維用紡機を増設

古知野工場増錘時点で、興和紡績株式会社の紡績設備は、綿、スフ、合繊、梳毛を合わせて約28万錘となり、戦前戦後を通して設備規模のピークを記録した。

木材・化成品の取扱開始

興服産業株式会社の非繊維事業の一環として、フィリピン・ミンダナオからのラワン材の輸入、海外からの化学薬品のバルク輸入などの事業を開始。

1958年昭和33年

コーワ・オプチカル・コーポレーション (Kowa Optical Corporation) をコーワ・アメリカン・コーポレーション (Kowa American Corporation) に商号変更

コーワ・オプチカル (Kowa Optical Corporation) 設立当初の目的を果たすべく当局との交渉を続け、社名もコーワ・アメリカン (Kowa American Corporation) と改称し、当初計画したとおりの会社プロフィールを実現した。

興和紡績株式会社は興和ゴルフセンター開場

興和紡績株式会社は、戦時中に熱田工場を空襲で建物のほとんどを消失した。旧工場は名古屋の都心にあって約4万坪のまとまった敷地であった。そのような中、昭和30年代に入りゴルフ人口が増加してきたためゴルフ練習場を建設することとなった。

興服産業株式会社は興和電機研究所を新設

興服産業株式会社は、昭和30年代に入りトランジスタを中心とする半導体の製造・応用技術が急速な進歩を遂げる中、電子技術開発の必要性からトランジスタラジオの生産を推進し、子会社の武蔵光学株式会社の工場の一角で6石トランジスタラジオや8インチポータルテレビなどの試作を開始。1958年に電機部を新設し自社での国内販売活動を開始。さらに興和電機研究所を開設したことにより、生産から販売にいたる電機部の骨格が完成した。

ブリュッセル万国博覧会に8ミリシネカメラ用交換レンズ、シネマスコープ用撮影レンズを出品し、名誉賞を受賞

昭和30年代前半、光学部門では双眼鏡、スポッティングスコープ、シネマスコープ用撮影レンズなどレンズ・眼鏡類の生産が引き続き順調に進められた。また、カメラ分野においては市場ニーズが二眼レフから三五ミリカメラへと急速に移行したため、興服産業株式会社も35ミリカメラで新製品を相次いで世に送り出した。

1959年昭和34年

、興和紡績および興服産業の社長に就任

興服産業株式会社は輸入雑貨部を二分割し、輸入毛麻部、物資部とする。履物の対米輸出を開始

神戸で生産された履物(ケミカルシューズ)の対米輸出を開始し、コーワ・アメリカン (Kowa American Corporation) を通じてアメリカ国内で販売した。

1960年昭和35年

興服産業株式会社を興和株式会社に商号変更

興服産業株式会社定時株主総会において商号変更の議案が上程され、満場異議なく可決された。これにより興和紡績株式会社、興和株式会社、興和新薬株式会社の三社が同じ「興和」の名を冠することとなり、商号の上でも「コーワグループ」が確立した。

総合胃腸薬「キャベジンコーワ」発売

興和株式会社はキャベツに含まれるMMSC(メチルメチオニンスルホニウムクロリド)に注目し、同成分を主成分とする製品開発を進め、昭和35年に胃腸薬「キャベジンコーワ錠」を発売した。

興和株式会社は医薬品のテレビコマーシャルを開始

テレビコマーシャルは、多数のフィルムが制作されることになるが、キャベジンのコマーシャルには代々個性豊かなタレントが登場し、マスコットカエルはコルゲンのコマーシャルで活躍して、大いに世間の注目を浴びた。

1961年昭和36年

興和紡績株式会社は株式を大阪証券取引所に上場

興和紡績株式会社は昭和20年代から30年代にかけて資本の充実を推進し、昭和36年には全株式を大阪証券取引所に上場した。

興和株式会社はシンガポール駐在員事務所を新設

シンガポールには戦前からの取引先が多く、東南アジア貿易の中心地であった。当事務所では綿布、合化繊布の日本からの輸入が主な業務であったが、他にタイル、化成品、カメラ、機械、合板、薬品など非繊維品の輸入も逐次増大していった。

1962年昭和37年

ホンコンシャツブームにより興和紡績株式会社小牧工場でのホンコンシャツの生産が急増。興和株式会社繊維部門における取扱いも伸長

昭和30年代は日本人の生活様式が大きく変わった時代であり、日常の衣服は既製服を購入する機会が増えていった。37年にはテトロン綿混の「ホンコンシャツ」がブームとなり興和紡績株式会社では小牧工場でこれを生産し、好成績を挙げた。

眼底カメラ「コーワRC」発売

眼底カメラ「コーワRC」を開発し、その後の医療用機器開発につながった。

1963年昭和38年

興和株式会社は「興和光器製作所」を蒲郡工場に、「興和電機研究所」を調布研究所に名称変更

昭和30年台半ばになりカメラ業界は熾烈な新製品開発競争、値下げ競争に明け暮れた。このような状況下、興和電機研究所でのラジオ、テープレコーダーの製造を蒲郡の興和光器製作所に移管した。その結果、興和光器製作所は光学製品と電機製品の量産品生産工場としての性格を強めることとなった。1960年には光学部と電機部を統合し電機光学部を発足させ、1963年にはそれぞれの事業所の名称を蒲郡工場、調布研究所に変更した。

興和株式会社は米国に現地法人「コーワ・カメラ・コーポレーション (Kowa Camera Corporation) 」を設立し、翌月には「プロミナー・インターナショナル (Prominar International Corporation)」に商号変更

興和株式会社の電機光学製品のアメリカでの販売はかねてより現地法人「コーワ・アメリカン (Kowa American Corporation) 」の手に委ねられていたが、同社の取扱品目が繊維、雑貨など拡大したことから、電機光学品に専念する会社として「コーワ・カメラ・コーポレーション (Kowa Camera Corporation) 」(その後、「プロミナー・インターナショナル (Prominar International Corporation) 」に商号変更)を設立し、光学製品は同社を通じて販売されることになった。

興和株式会社は機械類の輸入を開始

興和株式会社の機械輸入は、イタリアからカプセル充填機を輸入したのが始まりである。

1964年昭和39年

興和株式会社の東京研究所は、下高井戸から東京都東村山市野口町に新築移転

興和株式会社の東京研究所(下高井戸)は業務拡大により手狭になった。これに伴い下高井戸の旧東京研究所は廃止とし、東村山に新築移転した。

興和株式会社の医薬品新工場として富士工場を新設

名古屋工場が周囲の宅地化の進行により拡張の余地がなくなったため、新たにもう一つの工場を建設することになった。それが富士工場であり、同工場の完成により二工場体制となった。名古屋工場が小ロット多品種生産に携わり、富士工場はキャベジン、ミカロンなどの量産品の製造を中心とすることとした。

1966年昭和41年

興和株式会社は興和カメラ株式会社を設立

国内では昭和40年不況の際、カメラ業界も苦境に追い込まれた。興和株式会社は販売強化を目指してカメラの小売店向け直販会社「興和カメラ株式会社」を設立した。

1967年昭和42年

興和株式会社はシドニー駐在員事務所を新設

シドニー駐在員事務所は、大阪支店輸出部の取引先への繊維品販売から着手した。プリント綿布が主力であり、他に繊維二次品、カメラ、タイルなどを扱った。

興和紡績株式会社の古知野工場に仮撚機を設置 【加工糸分野に進出】

1964年に繊維工業設備等臨時措置法が定められ、繊維関連の過剰設備の廃棄等により繊維工業の合理化が図られた。同時期に昭和40年不況がわが国を襲い、繊維業界は戦後最悪の不況に陥った。そのような環境下において、興和紡績も精紡機の凍結を行うことになった。これを補うべく様々な製品開発、生産合理化を推進した。古知野工場では仮撚機2台を導入し、加工糸の分野に進出した。

興和株式会社の大阪支店輸出部が台湾からネル生地を輸入 【製品輸入の開始】

興和株式会社の繊維輸入は、綿花、羊毛といった原材料については昭和20年代後半から手掛けていたが、製品輸入は大阪支店輸出部が台湾から太番手のネル生地を輸入したのが最初である。

1968年昭和43年

興和株式会社はジャカルタ駐在員事務所を新設

インドネシア向けに繊維、鉄鋼、建築材料(セメント、アスファルト)などを輸出。

興和株式会社、興和紡績株式会社、興和新薬株式会社の共同出資で、不動産業の興和地所株式会社を設立

興和地所株式会社は建売住宅及びマンションの分譲を中心に業務を展開。

1969年昭和44年

興和株式会社はプロミナー・インターナショナル (Prominar International Corporation) 社を廃止し、業務をコーワ・アメリカン (Kowa American Corporation) に移管

堅実と進取堅実と進取

1970~1994

1970年昭和45年

「調布研究所」を調布工場に名称変更

興和株式会社の調布研究所は、昭和40年代前半、放送機器などを中心に着実な成長を遂げ、生産規模も拡大したので調布工場に名称変更を行なった。

興和株式会社は釣具の輸出を開始

興和株式会社の物資部は昭和30年代から引き続いて、機械類、雑貨(ハンドバッグ、履物)を取り扱った。昭和40年代後半に至り取扱品目は一層多様化し、釣具の欧州向け輸出を開始した。

1971年昭和46年

興和株式会社はベルギーに現地法人「コーワ・ヨーロッパ (Kowa Europe S.A. ) 」を設立

興和株式会社は1963年に興和製光学製品の対欧州向け輸出の本拠地としてブリュッセルに駐在員事務所を開設し、ハンドバッグ、鉱石、機械の対日輸出にも手を広げていった。欧州地区における商社業務が順調に伸びたため現地法人「コーワ・ヨーロッパ (Kowa Europe S.A. ) 」として独立した。

興和株式会社は「シンガポール・アクティベーティッド・カーボン (Singapore Activated Carbon (PTE) Ltd. ) 」を設立

興和株式会社はシンガポールで豊富に産するおが屑を原料とする活性炭を製造販売するため、大阪の化学メーカーと折半出資して設立した。

興和株式会社は「コーワ・オーストラリア (Kowa Co., (AUST) Pty. Ltd. ) 」を設立

興和株式会社はシドニーに駐在員事務所を設立したが、1971年に現地法人「コーワ・オーストラリア (Kowa Co., (AUST) Pty. Ltd. ) 」として独立した。

1972年昭和47年

興和株式会社は「フィリピン・ジャパン・アクティブ・カーボン(Philippine-Japan Active Carbon Corporation) 」を設立

興和株式会社はシンガポール・アクティベーティッド・カーボン (Singapore Activated Carbon (PTE) Ltd. )社と同様に活性炭の製造販売会社であるが、こちらはフィリピン産のヤシ殻を原料とする点が異なる。名古屋の化学メーカーと折半出資してミンダナオ島ダバオに設立した。

1974年昭和49年

興和株式会社は組織管理規定を制定し、繊維、非繊維、薬品、電機光学の四事業部を設置

第一次オイルショックとその後の総需要抑制政策は、興和グループにも多大な影響を及ぼした。紡績・繊維部門では輸入品が激増し需給バランスが崩れ、市場は在庫過剰で混乱を極めた。また鉄鋼、木材などの建設関連商品も、設備投資減少状況の中で極度の不振に追い込まれた。このような厳しい経営環境のもと全社的な対応として組織整備、経営計画策定という二つの施策を実施した。

1975年昭和50年

興和株式会社は上海駐在員事務所を新設

上海駐在員事務所の取扱高の約7割を占める繊維はすべて二次製品であり、紳士ブルゾン、婦人トップス、子供服、和装品などを幅広く取り扱う。

1978年昭和53年

興和株式会社はミラノ駐在員事務所を新設

ミラノは駐在員事務所として開設され、1987年より Kowa Europe GmbH の支店に衣替えした。非繊維品(ハンドバッグ)の対日輸出で始まった。

コーワ・ヨーロッパ (Kowa Europe S.A. ) を解散し、興和株式会社のブリュッセル駐在員事務所として存続

ブリュッセル駐在員事務所は、のち1986年に Kowa Europe GmbH が設立されると同時に Kowa Europe GmbH ブリュッセル支店に改組みされた。

1979年昭和54年

興和紡績株式会社は三興印刷株式会社を設立 【印刷業に進出】

興和グループの中では商品パッケージから帳票類に至るまで大量の印刷物を外注に出しており、これを社内で扱えば相当の仕事量になることが見込まれていた。とくに医薬品はキャベジンコーワなどマスコミ宣伝品が数多く需要は十分に期待できた。そこで、興和紡績株式会社の非繊維事業の柱の一つとして手がけることとした。

興和株式会社は株式会社ユニーク日新の全株式を興和紡績株式会社に譲渡

1971年に日新工業として設立し、翌年にはユニーク日新に商号を変更した。興和株式会社の富士工場内に工場を置いて、絆創膏、清浄綿など医薬部外品を製造していた。1979年に同社の全株式を興和紡績株式会社に移し、非繊維事業の一環に加えた。

1980年昭和55年

興和株式会社は米国現地法人「コーワ・オプチメド (Kowa Optimed, Inc. ) 」を設立

コーワ・オプチメド (Kowa Optimed, Inc. ) は社名のとおり、オプチカル(光学機器)とメディカル(医用機器)を扱う販売会社であり、電機光学事業部のアメリカにおける新しい販売拠点となるものである。これによりコーワ・アメリカンの光学品販売部門はコーワ・オプチメド (Kowa Optimed, Inc. ) に移管された。医用機器についてはそれまで20年近く現地の総代理店を通じて販売してきたものを、ディーラーへ直接販売する体制となった。

興和紡績株式会社は株式会社ユニーク日新に小牧工場を新設

ユニーク日新の小牧工場では、脱臭剤の生産を開始した。ついで紙おむつの生産を開始した。紙おむつの生産は順調に伸びたがその後、メーカーの乱立、競争激化に伴う製品価格の下落が著しく1985年に生産を中止した。

1981年昭和56年

興和紡績株式会社は知立電子工業株式会社を設立

興和紡績株式会社は、ビデオ製品に組み込まれるプリント配線基板の組立を行うことになった。興和紡績株式会社の全額出資で知立電子工業を設立し、興和紡績株式会社知立工場内の製品倉庫を工場に改装し昭和57年に操業を開始した。

1982年昭和57年

株式会社ユニーク日新を株式会社興和ヘルスケアーに商号を変更

株式会社ユニーク日新を株式会社興和ヘルスケアーに商号変更し、続く1983年には興和紡績株式会社本体に「ヘルスケアー部」を設置。興和紡績株式会社ヘルスケアー部が開発部門(研究開発部)と製造部門(小牧工場)をもって生産を担当し、子会社の株式会社興和ヘルスケアーは販売のみを行なうこととした。

1983年昭和58年

興和株式会社は米国現地法人「コーワ・カリフォルニア (Kowa California, Inc. ) 」を設立

コーワ・アメリカン (Kowa American Corporation) のロスアンゼルス支店として開設してから靴・タイルの取扱いに加え、新規事業として乾牧草、ホホバオイル、サーフボードなどの日本向け輸出を手がけた。1980年には興和の駐在員事務所に管轄を変更し、さらに1983年にはコーワ・アメリカン (Kowa American Corporation) の全額出資子会社として「コーワ・カリフォルニア (Kowa California, Inc. ) 」へと形態を変えた。

興和株式会社は富士研究所(医薬事業部)、調布研究所(電機光学事業部)を新設

興和株式会社の医薬品研究は1964年以降、東京研究所一ヶ所で行なわれてきた。昭和50年代に入ってからは研究設備の更新・拡充と同時にGLP、GCP対応を果たすための設備と機構が進められた。GLP・GCPの実施に伴い、当初からこれらに適合した施設として富士研究所を新設した。また電機光学事業部の研究開発は蒲郡・調布の両工場の技術部において進められていたが、さらに先端の技術開発に取り組み、また基礎研究の領域にも挑戦していくための拠点として設けられた。

1984年昭和59年

興和株式会社は米国コヒレント社と合弁でコヒレント
コーワ株式会社を設立

コヒレント社はレーザー機器では世界のトップメーカーであり、かねてより日本に生産拠点を設けるためのパートナーを探していた。興和はコヒレント社に眼底カメラをOEM供給しており、当社の技術水準に注目した同社からの提案だった。一方、興和もレーザー応用機器の開発に本格的に取組み始めたところであり、技術の練磨のためにも共同事業に取り組んだ。

1985年昭和60年

興和株式会社はデュッセルドルフ駐在員事務所を新設

デュッセルドルフに新しい駐在員事務所を開設し、ブリュッセル駐在員事務所から主要な活動をこちらに移管した。

興和株式会社は興和オプチメド株式会社を設立

興和オプチメド株式会社は、昭和60年頃の医用光学機器の占める比重が高まりを見せ、また医用機器の進歩に伴ってユーザーに対してさらに緻密な学術情報提供活動が求められるようになってきた。このため医用光学機器の販売部門を別会社に分離独立させ機動的な営業活動を目指すこととした。

興和紡績株式会社は三興紙器株式会社を設立

興和紡績株式会社は、ダンボールの取り扱いについては既に昭和50年頃から物資部において始めていた。これを更に進め、自らダンボールケースの製造加工(製函)を手がけるべく、興和紡績株式会社全額出資で三興紙器株式会社を設立した。

1986年昭和61年

興和株式会社は西独(現在のドイツ)に 「コーワ・ヨーロッパ (Kowa Europe GmbH) 」を設立

デュッセルドルフ駐在員事務所の同じオフィス内に新しい現地法人「コーワ・ヨーロッパ (Kowa Europe GmbH) 」を設立した。なお、デュッセルドルフ駐在員事務所は引き続き存続させ、欧州総支配人を置き、 Kowa Europe GmbH を管理統括する機関に改組して活動を続けた。

1987年昭和62年

興和株式会社は財団法人「興和生命科学振興財団」を設立

興和生命科学振興財団は、人類の疾病の予防と治療に関する技術研究を助成してその振興を図るため、興和グループが社業収益の一部を拠出して設立した財団である。

興和総合科学研究所(筑波研究学園都市)を新設

1980年代に入ってエレクトロニクスやバイオテクノロジーなどのハイテク分野で新しい発見や開発が相次ぎ、学会・産業界を沸かした。興和株式会社は戦後の事業多角化の中で、医薬ならびに電機光学の二つの分野に取り組み、それぞれのメーカーとしての地位を築いてきたが、幸い両分野とも典型的なハイテク産業に属するものであった。このメリットを一層活用するため、医薬・電機光学に関わる基礎的研究、ならびにその双方にまたがる境界・学際領域の研究を行なう研究所「興和総合科学研究所」を設立した。

興和株式会社はチリ現地法人「コチ (Kochi S.A. ) 」を設立

興和株式会社はチリに投資会社「コチ (Kochi S.A. ) 」を設立した。コチ (Kochi S.A. ) は、チリの化学鉱業公社「SQM社」に出資を行い、同社製の硝酸カリウムの対日輸出を開始した。

1988年昭和63年

興和株式会社は大連駐在員事務所を新設

大連駐在員事務所は、ワーキングウェアの生産・輸出拠点として開設された。主として岡山繊維第二部向けに送り出すものであった。

1989年昭和64年/平成元年

興和紡績株式会社は株式会社シュテルン名古屋南を設立

メルセデス・ベンツ車の正規販売会社として、興和紡績株式会社全額出資で「株式会社シュテルン名古屋南」を設立した。中部地区では初めてのメルセデス・ベンツの専門販売会社として地元の高級輸入車市場の開拓に努めた。

興和株式会社は香港現地法人「コーワ・アジア (Kowa Asia Ltd. ) 」を設立

1969年以来「コーワ・トレーディング・ホンコン (Kowa Trading Co., (HK) Ltd. ) 」として活動してきたが、1989年に「コーワ・アジア (Kowa Asia Ltd. ) 」を設立し、こちらに業務を移管した。業務もそれまでの日本製生地の現地縫製工場向け販売から、逆に中国繊維品の日本向け輸出へと重点を移していった。

興和株式会社は開發本部を新設

開發本部は新規事業の企画開発を目的とする部門であり、興和株式会社の組織機構のなかでは、繊維・非繊維・医薬・電機光学の4事業部と並ぶ位置に置かれた。形式上は興和株式会社に属するが、実質的には興和グループ全体に関わる機能を果たすこととした。オール興和としての将来像策定、興和グループの現有経営資源を有機的に結合する中での新事業の企画開発などを大きな目標とするものであった。

1990年平成2年

興和紡績株式会社本社ビルとサウスハウスビルが平成元年度「名古屋市都市景観賞」を受賞

清家清東京芸大教授の設計になる建物は、興和グループの新しい本拠地にふさわしい斬新な構造が採用された。本館と南館の2棟からなり、5階・10階には両ビルをつなぐブリッジ式通路を設けた。サウスハウスの外壁にはルイ・フランセン作の壁画が施され、道行く人々や入館者の目を楽しませた。「名古屋市都市景観賞」は二つの建物に分け、町並みの軒高に合わせるなど、町並み形成に配慮した造りが評価されたものである。

1991年平成3年

興和紡績株式会社は名南研究所清生工場を新設

1988年にかねてより準備を進めていたエンジニアリングプラスティック成形分野への進出の第一歩として、金型の生産設備を名南研究所に設置し、生産を開始した。このため研究所組織を「電子機器部」「精密機器部」に分けた。精密機器部では成形機1台を導入し、エンジニアリングプラスティック成形を始めた。平成に入ってから成形の生産を本格化させ、生産増強のため松阪に「名南研究所清生工場」を開設した。

グローバル企業への躍進グローバル企業への躍進

1995~2009

1995年平成7年

興和紡績株式会社・興和株式会社・興和新薬株式会社・興和オプチメド株式会社 代表取締役社長が代表取締役会長に就任し、代表取締役副社長が代表取締役社長に就任

社長は、国内はもとより、グローバルな視点で、川上から川下まで一貫したバリューチェーン構築を模索しながら興和グループ全体の事業活動を指揮していくことになった。

興和株式会社は静岡県浜松市に浜松工場を新設(医療機器製造)

興和株式会社は眼底カメラなどの医療機器を製造する浜松工場を新設した。

1996年平成8年

興和紡績株式会社は松阪工場の操業を休止し、紡績業から撤退

興和紡績株式会社は松阪工場の操業を休止し、1919年から約80年間続けてきた紡績業から撤退することとなった。

1997年平成9年

興和株式会社は米国現地法人「 Kowa Research Institute, Inc. 」を設立

興和株式会社はアメリカの研究開発拠点として Kowa Research Institute, Inc. を設立し、今後の米国展開に備え研究開発体制の足固めを行なった。

1999年平成11年

興和株式会社は英国現地法人「 Kowa Research Europe, Ltd. 」 を設立

興和株式会社は医薬品のグローバル展開の推進を図り、米国での Kowa Research Institute, Inc. 設立に引き続き、欧州展開を見据え、欧州での研究開発拠点を設立した。

興和株式会社は(株)名古屋観光ホテルに対し、株式公開買付けを行い、株式を取得

興和株式会社は名古屋観光ホテルを子会社とし、ホテル事業に参入した。

2000年平成12年

興和株式会社は英国現地法人「 Kowa Pharmaceutical Europe Co. Ltd. 」を設立

興和株式会社は欧州での医薬品製造販売を行なう新会社 Kowa Pharmaceutical Europe Co. Ltd. を設立した。この設立により欧州での、研究開発、製造販売までの一貫体制が整った。

2001年平成13年

興和株式会社は愛知国際放送株式会社の第三者割当増資を引き受け株式を取得

興和株式会社は愛知国際放送を通じ、FMラジオ放送事業に本格参入した。

2003年平成15年

興和株式会社は高コレステロール血症治療剤「リバロ錠」の製造承認を取得

興和株式会社は高コレステロール血症に優れた効果を示す薬剤「リバロ錠」の製造承認を取得した。本剤は日本ではじめての全合成のHMG-CoA還元酵素阻害剤。現在では興和株式会社の主力製品に成長し、国内のみならず、海外においても販路を広げつつある。

興和株式会社は日研化学株式会社に対し、株式公開買付けを行い株式を取得

興和株式会社は、リバロ錠の製造承認を取得し、同製品の販売に注力する中でMR1000名体制が必要不可欠だと判断した。さらに、世界規模での競争激化にともない、グローバル化された研究開発・販売体制の構築が急務となっていた。そこで日研化学との積極的なアライアンスを通じてさらなる事業規模の拡大が必要と考え日研化学株式会社を子会社化した。

2004年平成16年

興和新薬株式会社は興和株式会社に医療用医薬品事業を事業譲渡

興和新薬株式会社は、興和株式会社が製造する医薬品の販売会社として事業運営を行なっていたが、医療用医薬品の高度化に伴い、有効性と安全性に優れた医薬品を供給していく為には、製造・販売の緊密な連携が重要となってきた。そこで興和株式会社は研究開発・製造・販売を一元的に管理運営することによって、より良い製品づくりと事業効率化をめざすため、興和新薬株式会社の医療用医薬品の販売事業を譲り受けた。

2005年平成17年

興和株式会社は大日本製薬株式会社およびマルピー薬品株式会社よりOTC(一般用)医薬品事業を譲受ける

OTC医薬品、ヘルスケア品および医療用医薬品をコア事業と位置づける興和株式会社と、医療用医薬品に特化を図る大日本製薬株式会社(現在の大日本住友製薬株式会社)との間で、興和株式会社が大日本製薬株式会社のヘルスケア事業と同社の子会社であるマルピー薬品株式会社の販売事業を譲り受けた。

興和新薬株式会社が、興和紡績株式会社より株式会社興和ヘルスケアーの販売事業を譲り受ける

興和紡績株式会社のヘルスケアー事業の競争力と営業力の向上を図るため、医薬部外品の販売会社である興和ヘルスケアー株式会社の販売事業をOTC医薬品等の販売を行なう興和新薬株式会社に譲渡した。

2006年平成18年

日研化学株式会社は東京証券取引所市場第一部を上場廃止、商号を興和創薬株式会社へ変更した。

興和株式会社は日研化学と販売面においては興和株式会社の医療用医薬品の主力品である高コレステロール血症治療剤「リバロ錠」と血圧降下剤「オルメテック」のコ・プロモーションで、研究開発面では医薬品の共同開発に向けた協働作業、さらに全社的な人材交流を通じて広範な協力関係を構築してきた。さらに提携関係を推進する上で興和株式会社は日研化学株式会社を完全子会社化し、両社の営業部門を統合することにした。日研化学株式会社は興和株式会社の完全子会社となることで東京証券取引所一部の上場を廃止することになった。また、日研化学株式会社は興和グループ医療用医薬品事業の中核企業として商号を興和創薬株式会社に変更した。

興和株式会社は株式会社アイコン設立

興和株式会社と株式会社メニコンは、光学技術を軸に興和株式会社の有する眼科領域の販売力とメニコンの有する研究開発力を結集し、それぞれの経営資源を有効に活用して眼内レンズ事業のさらなる拡大と発展を目指すべく合弁会社アイコンを設立した。製造は、株式会社アイコンにて行い、研究開発は興和株式会社と株式会社メニコンが共同で行なっている。

2007年平成19年

興和紡績株式会社は繊維事業を興和へ事業譲渡

1894年に「服部兼三郎商店」として創業し、源流を同じとする興和紡績株式会社と興和株式会社は両社で繊維事業を推進してきたが、興和グループにおける繊維事業の集約化および効率化の一環として興和紡績株式会社の繊維事業を興和株式会社に事業譲渡した。

興和創薬株式会社は、会社分割により、医薬品の製造販売業および製造業に係わる事業、並びに研究開発事業を興和株式会社に承継し、医療用医薬品の販売会社となる

興和創薬株式会社は、2006年に興和株式会社と日研化学株式会社の営業部門を統合し、興和創薬株式会社として発足したが、さらに、興和株式会社と興和創薬株式会社との緊密な連携のもと効率的でスピード感のある経営を推進することにより、競争力の強化を図ることを目的として、会社分割を行い、興和創薬株式会社の医薬品の製造販売業および製造業に係わる事業、並びに研究開発事業を興和に統合した。

興和株式会社は興和(上海)医薬諮詢有限公司を設立

興和株式会社は、医療用医薬品・OTC医薬品の中国展開を見据え、医薬品の医学的・薬学的学術活動、販売促進活動の代行、市場導入等に関するコンサルタント業を行なう興和(上海)医薬諮詢有限公司を設立した。医療用医薬品のリバロ錠(中国での販売名:力清之)は、同社を通じて2009年7月より販売を開始した。

2008年平成20年

興和株式会社はプロエチック社( ProEthic Pharmaceutical, Inc. )に対しTender Offer(テンダー・オファー)を実施することで株式を取得し、社名を Kowa Pharmaceuticals America, Inc. に変更

興和株式会社は米国における医療用医薬品・リバロ錠の販売、後続パイプラインの確保を目的にプロエチック社 (ProEthic Pharmaceutical, Inc. ) を買収した。これにより日欧米、世界三極での販売体制が確立した。

興和株式会社はテバファーマスーティカルインダストリーズとの合弁会社「興和テバ株式会社」設立

興和株式会社は、テバ社とジェネリック医薬品で戦略的提携を行い、合弁会社「興和テバ株式会社」を設立した。興和株式会社は医療用医薬品・OTC医薬品・ジェネリック医薬品を柱とするハイブリッド経営を推進。興和テバ株式会社は、興和株式会社・テバがそれぞれもつマーケティング・リサーチおよびR&Dにおける強みを最大限に活かし、高品質なジェネリック医薬品を日本の患者さまに提供していく。さらに国が推進する2012年までにジェネリック医薬品の数量シェアを全体の30%に引き上げる目標の達成に貢献していく。2010年より本格的に営業を開始。

2009年平成21年

興和株式会社とアポプラスステーション株式会社との合弁で人材派遣会社キャリア&リープス株式会社を設立

興和株式会社は、医薬情報担当者(MR)派遣のパイオニアであるアポプラスステーション株式会社とOTC医薬品等を中心とした営業支援事業に係る合弁会社「キャリア&リープス」を設立した。2009年4月よりドラッグストア等の店頭や売り場における様々な販売促進活動を総合的にサポートする活動を開始。

興和株式会社のマスコットカエルの誕生60周年を記念して船上バースデーパーティを開催

5月16日にコーワのマスコットカエルが誕生60年を迎えた。1949年5月16日に蕁麻疹(じんましん)のお薬レスタミンコーワの新聞広告のイラストで登場して以来、同年からかぜ薬のコルゲンコーワのキャラクターとして愛用されている。船上パーティでは普段よりマスコットカエルを応援していただいている生活者の皆様とご一緒にマスコットカエル誕生60周年をお祝いした。

興和株式会社は中国において高コレステロール血症治療剤「ピタバスタチンカルシウム(中国での販売名:力清之)」の販売を開始

中国において興和(上海)医薬諮詢有限公司を通じて、高コレステロール血症治療剤「ピタバスタチンカルシウム(中国での販売名:力清之)」の販売を開始した。中国での発売を記念し、北京市内にあるパークハイアット北京にて記念講演会を開催。中国各地区の先生方が多数参加した。

興和株式会社は米国における原発性高コレステロール血症および混合型脂質異常症治療剤「ピタバスタチンカルシウム」の販売許可を米国食品医薬品局(FDA)より取得

興和株式会社は、 Kowa Research Institute, Inc. を通じてFDAにリバロの新薬販売許可申請を行なっていたが、2009年8月にFDAから新薬販売許可を取得した。米国におけるピタバスタチンの販売は Kowa Pharmaceuticals America, Inc. が行う。

興和株式会社は米国ボストンに医薬品の研究開発拠点となる「心臓血管科学研究所(CICS)」を設立

CICSは、心臓血管科学研究における発見および発展を目的とし、興和株式会社の研究員とハーバード大学付属病院の科学者が協働する研究施設。興和株式会社はハーバード大学医学部の最先端研究とのコラボレーションにより、当社の技術基盤の拡充とパイプライン(開発テーマ品)の研究促進を図っている。

最先端のさらなる先へ最先端のさらなる先へ

2010~2018

2010年平成22年

興和テバ株式会社 営業開始

興和テバ株式会社は、この国の安心できる医療のための、最先端のジェネリック環境を患者さまに提供し続けるという理念のもと、ジェネリック医薬品の販売を開始した。

胃腸薬「キャベジンコーワ」発売50周年

2010年2月1日にキャベジンは、発売50周年を迎えた。今後も皆様にご愛用いただけるよう処方改良を加え、世代を超えて日本人の胃を守り続ける胃腸薬として、これからも開発を続けてまいります。

興和紡績株式会社がマネジメント・バイアウト(MBO)により上場廃止

興和紡績株式会社普通株式は、2010年5月14日をもって上場廃止(大阪証券取引所・名古屋証券取引所)となる。

原発性高脂血症および混合型脂質異常症治療剤「LIVALO」の米国販売開始

興和株式会社の米国子会社である Kowa Pharmaceuticals America, Inc. は、興和が米国で新薬販売承認を取得した原発性高脂血症および混合型脂質異常症治療剤「ピタバスタチンカルシウム、米国登録商標名LIVALO」について、米国にて2010年6月28日より販売を開始した。

興和株式会社は株式会社インコントロを設立

興和株式会社は株式会社インコントロを設立し、海外ファッションブランドを中心に取り扱うアパレル小売事業に本格的に参入した。

興和株式会社は吸収分割により、興和紡績株式会社のヘルスケアー事業、精密機器事業および不動産事業(3物件)を承継

興和株式会社は、興和グループの事業戦略として事業の効率化を企図とした事業再編を推進することを目的に吸収分割を実施した。

興和紡績株式会社は興和紡株式会社と合併

興和紡績株式会社は興和紡株式会社と2010年11月1日付で合併した。

2013年平成25年

メガソーラー事業への参入 富士太陽光発電所 竣工

興和は「健康と環境」の一環として再生可能エネルギーを利用したメガソーラー事業で、低炭素社会の実現に貢献することとなった。「富士太陽光発電所」の敷地面積は20,583㎡。そこに太陽光パネル約6,100枚を設置し、年間約150万KWhを発電することとなった。

米国BWH(ブリガム・アンド・ウィメンズ病院)から記念の椅子贈呈

興和は2009年にハーバード大学付属病院のブリガム・アンド・ウィメンズ病院とともに「心臓血管科学研究所」を設立。2012年には社長の名を冠した「Yoshihiro Miwa Associate Chair基金」を開設するなど、研究を支援していたことから、BWHロゴが刻印された椅子を贈呈された。

浜松工場 軟膏液剤工場 新設

東日本大震災を契機にリスク管理の一環として、製造拠点の分散化を図るため、同工場を新設し、海沿いの富士工場で生産している医薬品の一部を高台に建つ浜松工場へ移管した。

2014年平成26年

グラナテック点眼液0.4%(一般名:リパスジル塩酸塩水和物)を発売

Rhoキナーゼを阻害することで、線維柱帯-シュレム管を介する主流出路からの房水流出を促進して眼圧を下降させる世界初の作用機序をもつ緑内障・高眼圧症治療剤。

2015年平成27年

江守商事株式会社(現 興和江守株式会社)と業務提携契約を締結

福井県の名門企業 江守グループホールディングスの民事再生法適用の申請に伴い、興和は同社の中核事業会社である江守商事との間で、業務提携を行った。

2016年平成28年

三輪社長 在名古屋タイ王国名誉総領事就任

興和株式会社の代表取締役社長は、2016年3月4日付でタイ国王より「在名古屋タイ王国名誉総領事」を任命された。1956年に興和社内に開設した、タイ王国名古屋名誉総領事館を通じ、同国との友好関係発展に寄与した功績を認められたことによる。また5月19日には、在京タイ王国大使館にて任命式が執り行われた。

Kowa Holdings Europe AG 設立

スイスにて、欧州における地域統括業務を行う。

Kowa Holdings Asia Pte. Ltd. 設立

Kowa South East Asia Pte. Ltd. から社名変更し、シンガポールにて東南アジアにおける地域統括業務を行う。

2017年平成29年

株式会社丸栄を完全子会社化

興和グループと丸栄との連携をより一層強め、両社が一体となって事業活動を推進していくこととなった。

2018年平成30年

パルモディア錠0.1mg(一般名:ペマフィブラート)発売

高活性かつ高選択なPPARαモジュレーター(Selective Peroxisome Proliferator-Activated Receptor α Modulator、呼称名:SPPARMα・スパームアルファ)の概念に基づいて、興和が世界ではじめて自社創製した高脂血症治療剤「パルモディア」を発売した。

未来を拓く

2019~

2019年平成31年/令和元年未来を拓く

医薬品事業の再編

従来、OTC医薬品・ヘルスケア品と医療用医薬品のそれぞれの販売事業を興和新薬株式会社、興和創薬株式会社でおこなってきたが、意思決定の迅速化、コストの合理化、グローバル対応の強化のため、興和株式会社がOTC医薬品・ヘルスケア品の販売ならびに医療用医薬品の情報提供活動を行うことで、医薬事業の製販を統合・集約することとした。

米国・ハワイにおいて「エスパシオ・ザ・ジュエル・オブ・ワイキキ」開業

興和が初めて海外で開業した超高級ホテル。「エスパシオ」はスペイン語で「空間」を意味する。「未だかつてない驚きと感動、そして癒しを」をコンセプトに、ワイキキビーチを真正面に見渡す最高のロケーション、1フロア1室の全室スイートルームほか、ラグジュアリーな「おもてなし」を提供している。

浜松太陽光発電所 竣工

富士に続き、浜松にも太陽光発電所を新設した。富士太陽光発電所と合わせて、一般家庭1500世帯相当の電力を発電している。

創業125周年

1894年創業より、12月25日で125周年を迎えた。